「トーマの心臓」萩尾望都

トーマの心臓 (小学館文庫)トーマの心臓 (小学館文庫)
(1995/08)
萩尾 望都

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冬の終わりのその朝、1人の少年が死んだ。トーマ・ヴェルナー。そして、ユーリに残された1通の手紙。「これが僕の愛、これが僕の心臓の音」。信仰の暗い淵でもがくユーリ、父とユーリへの想いを秘めるオスカー、トーマに生き写しの転入生エーリク……。透明な季節を過ごすギムナジウムの少年たちに投げかけられた愛と試練の恩寵。今もなお光彩を放ち続ける萩尾望都初期の大傑作。

なぜ今畏れ多くも「トーマの心臓」なのか。
多くの漫画を読み散らかしてきましたが、私にとってこの漫画ほど「考えるために存在する漫画」はなく、一度きちんと向き合い、上手く云えなくてもその想いを文字形にしてみたいと思ったからなのです(まぁ、いつものことながらの自己満足文なのですが)。
少女漫画界に燦然と輝く名作で傑作。紛れもない永遠の神様。
若輩者が語ること故色々な落ち度はあると思いますが、広い心持で読んで頂けるとありがたいです。

私と「トーマの心臓」の出会いは中学生でした。
しかし当時は新聞書評を切っ掛けに読んだ「風と木の詩」に大っ変な衝撃を受けたショック状態の後に「トーマ」に手を出した為、この漫画に描かれている内容の半分も理解は出来なかったように思います。「トーマ」と「風木」は同じ「同性愛(少年愛)」を題材に据えていながら、ほぼ180度テーマと表現方法が異なっていて、「風木」が性愛をセンセーショナルに描いたのに対して、「トーマ」はひたすらに精神愛を描きます。「特定個人への愛=エロス」と「全体への愛=アガペー」の対比で語られることが多いのはそのためですね。思春期の少女の心にどちらがより強く刻まれたかといえば…答えは明白ですよね(笑)

ところで私は80年代生まれの俗に云うアラサーですが、男と男が身体を繋げる漫画とのファーストコンタクトは「風木」でした。BLも同人誌も普通に存在していた時代に何でそんなことになったのかというと、今と違いネットもそこまで普及をしていない当時、田舎の女子中学生の情報源といえばテレビ、新聞、雑誌、ラジオ、そして友人知人であったわけですが、偶然なのかアンテナが発達していなかったのか、私の友人知人には誰一人として「腐的要素(オタク要素)」を持った子がいなかったのですね。「独り」であるということは、思春期真っ盛り自意識過剰の中学生だった私にとっては行動を大変に制限されるということだったのです。誰も見ていなくても、本屋で男と男が顔を寄せ合う漫画を手に取れないし、そういうものに興味があると誰かに云う事も出来ない。好きなものがすぐ近くにある予感がするのに、それが何なのかわからない。そんな悶々としていた時代に図書館だけは自由に行動できる数少ない場所だったわけです。「風木」を図書館で借りた日の興奮とその後の衝撃は今でも覚えています。それを一言で表現すれば、「こういう漫画が存在することに対する感謝」でしょうか。厳密に云えば私は「風木」「トーマ」をBLと同じように考えたことはないのですが、それでも「風木」を読んだから「他の作品も」という気持ちが生まれて今に至っているのは事実です。
「風木」が新聞書評というハッキリした記憶があるのに対して「トーマ」の存在をいつどこで知ったかの記憶が定かではないのですが、おそらく…96年に初舞台化された「スタジオライフ」の記事を新聞で目にしたのが切っ掛けだったと思います…。←嘘みたいだけど本気でこの頃の私の文化情報は新聞の夕刊&日曜版が頼りだったの!狭い!

長い前置きになりました。
以来3年に1度ぐらいのサイクルで読み返しているのですが、未だに私はこの名作を「理解した」という気持ちになるに至っていません。中学生の頃は「わからなーい」と半ば投げ出し(だからこの漫画が「少女コミック」に連載されていたというのが信じられない!昔の少女漫画とそれをリアルタイムで享受出来た少女達の感受性の豊かさには、ずっと驚いている)、高校時代には「無償の愛ってすごいな」と額面通りに受け取り、大学時代には「トーマの行為は残された人々にとって大変な暴力では」と思い、今現在もその両方の気持ちを持ちながら作品世界全体を眺めているような心持でいます。トーマが何故死を選んだのか、答えと理解は読む人各々の中にあり結論付けられるようなものではありませんし、日本という国で生まれ育った私には、この話の核であるユリスモールの苦悩を芯から理解することは出来ないのだとも思います(その条件は大多数の読者にとっても同じこと)。それでも読むたびに比類ない感動と、思索をする機会を与えてくれるこの作品は、やはり唯一無二の存在なのだと思います。

以下たたみます。ネタバレしますのでご注意を。
読んだことある人にはイマサラ、ない人にはチンプンカンプンなとっても不親切な雑文となっております。

***

***

物語はあらすじにあるようにトーマの死から始まります。誰からも愛された天使のような少年の、事故とも自殺とも判然としない死。誰もが悲しみと共に彼の記憶を過去のものにしようとした時、トーマに瓜二つの少年エーリクが転入してきます。生前のトーマが思慕を寄せたユーリ、ユーリをある理由から見守るオスカー、そして何も知らないエーリク。トーマの思い出に誘われ、彼らが抱える複雑な胸中と秘めた想いが次第に明らかになっていくことに―。
転入生のエーリクはその無邪気で活発な性質から悉くユーリとぶつかることになります。誰からも心を閉ざし、決して本心を見せようとしないユーリにエーリクは段々興味を覚え、惹かれてゆきます。そして自分と瓜二つのトーマが死ぬことになった経緯、時折ユーリが自分に向ける憎しみのようなものの正体が知りたいエーリクは、誰も踏み込むことの出来なかったユーリの内側へと入っていくことになるのです。

最初に私はこの作品を「同性愛(少年愛)」の物語と書きましたが、それがどんな愛情なのか、作者は冒頭1頁目でこのように記しています。

―この少年の時としての愛が
 性もなく正体もわからないなにか透明なものへ向かって
 投げだされるのだということも知っている


成就の仕様のない、結果を求めない、恋愛というよりも崇拝に近い愛の感情。彼らは気が付いている。その感情が少年期特有の不可思議な、だけども抗いがたい熱のようなものであることに。「性もなく」―少年が青年になる直前の僅かな期間。男でもなく女でもない互いへと向けられる、ただ、今という時にだけある透明な愛。それこそが「トーマの心臓」の全体を覆う愛の正体なのだと思います。そして、エロスを介在しない愛は、たとえ特定個人へ向かうものであったとしても、限りなく全体への愛に近いものになるのではないかと思います。

ユーリに一体何が起きたのか。
なぜトーマは死ぬ必要があったのか。


物語はこの二つの謎を軸に展開していきます。

何者かに踏み躙られたとき人は一体何を最も強く憎むべきなのか。何を最も強く許せないと感じるべきなのか。恐らくそれは踏み躙った相手であるべきです。自分を悪の道に誘惑し、籠絡し、凌辱した加害者を憎み怨むべきです。なぜならそれはもう一方の対象を憎むよりも余程楽だから。では、もう一方の対象とは何か。それは自分自身。悪に惹かれ、誘惑に負け、堕落し、凌辱されるを良しとした弱い自分自身。人は誰しも二つの側面を持っていて、良いものに惹かれると同時に悪しきものにも魅力を感じてしまうもの。一方だけを見て絶対に揺るがないと云える人がいたとしても、私は信じられない。だけどユーリは、悪の魅力に抗えなかった自分を許すことが出来なかった。それまでの自分の存在価値をすべて否定して、殻に閉じこもり、表向きは優等生の顔を続けて、内側では「死んでいた」。彼を「殺した」事件の経緯と顛末について詳しく書くことはしませんが、私がその事件の重要性を深く理解できるようになったのは大学生になってからでした。「キリスト教の信仰心」という安直に共感も理解もし難い気持ちを問題の中心に置いた萩尾先生の意図することを読者である私は完全にはわかりませんが、自己犠牲をもって他者を救済するイエス・キリストの姿とトーマの姿を重ね合わせた時に、ユーリ(彼は自分のことをユダだと捉えている)の心が救済される理由が少しだけわかった気がしたのでした。

ユーリの心を救うためにトーマは命を投げ出した。
自身の死をもってユーリに愛と許しを与えるために。



言葉にすれはひどく簡単だけどそれは一体どういうことなのか。なぜその行為が救済にあたるのか。
「これが僕の愛、これが僕の心臓の音」―叶わなかった恋の当てつけのようにも受け取れる遺書の真意にユーリが気が付くのは、エーリクがぶつける真っ直ぐな愛情に触れた時だったのですね。自分は天使ではないと、羽は捥げてしまった云うユーリに、エーリクはただ一言「僕の羽をあげる」と伝えるのです。その瞬間、すべてを拒絶していたユーリがトーマ(エーリク)の無償の愛を理解した時、ユーリの世界は再び動き始める。トーマの死はユーリを世界に押し出すことに成功するのです。そしてトーマの愛をユーリに理解させたのは、トーマに生き写しの少年エーリクだったことの意味を考えると、残酷だけど、エーリクはトーマの生まれ変わりでもあったのだと思うのです。トーマの姿をしていなければエーリクが深くユーリの内面に辿りつくことはなかったのだろうし、エーリクはトーマの愛を再現することで、ユーリに気付きを与えることに成功したのだと思います。側で見守り続けたオスカーが出来なかったことを、エーリクは体当たりでしてしまった。

正直私は何度読んでも、命を投げ出す程の「無償の愛」とは、暴力的なまでに重い感情のように思えるのだけど、キリスト教の教義である「自己犠牲」の意味を考えたとき、トーマがユーリに与えたものは愛だけではなく「信仰心の回復」でもあったのだと思うのです。悪の使者に魅了され踏み躙られた(転向させられた)ユーリの精神を救済するのに、トーマは自身の命をもって、それが確かに「ある」ということを証明したのですよね。信仰心を失う事がどれ程の絶望であるのか、それがユーリの人生を「殺して」しまう程の重さを持っているという実感はなかなか得られるものではありませんが、ユーリが選択した人生を考えると、救済は十分に成されたのだと思うのです。大人の正論や意見は無意味で、だから彼らは「少年」で、持ち物は自分の身体だけと頑なに信じ、「時が解決する」という大正論であり大抵の物事の解決方法であるその答えを思いつきもせず、ただ、持っているものすべて投げだして表現しようとしてしまう。その幼さ、無邪気さ、残酷さ、そして美しさ。この話がキリスト圏のギムナジウムという閉ざされた世界を舞台にしているからこそ成立する世界観を、萩尾先生は完璧に創り上げている。大変な偉業であると、大袈裟でもなんでもなく思います。

トーマはイエスでも天使でもなく一人の人間の少年でしたが、稀有な魂を持った少年を「天使」と崇める頃があるのですよね。「子供は天使」という言葉をたまに耳にしますが、確かにそういった姿をしているのだと感じる時があるのだと思います。トーマの存在が「人以上」のような印象を受ける場面が多くありました。トーマはいつかユーリが恋文の隠された「本」の元に、辿りつく(帰ってくる)ことを知っていたのではないでしょうか。あの事件との「決別」という感情を持って再び立ち上げる時がくることを。何故ならトーマはユーリの書籍票を追いかけていましたが、例の事件後もユーリは本を借りていた筈なのです。それにも関らずトーマが恋文の隠し場所にあの本を選んだことは、彼がすべてを知っていた(たとえ事実をではなくても)という意味なのではないかと思いました。冒頭で退出した少年がすべてを俯瞰する神の視点を持っていたというメッセージ。物語として何一つ無駄な描写がない完璧な作品だと思います。

纏まりなく書いてきましたがこれは今現在の私が思うことであり、また数年後に読み返せば今とは違う発見と気付きが待っているのだと思います。これはそういう作品なのです。未読の方、是非手に取ってください。読まないでいるのは本当にもったいないと心の底から思います!




***
何もかも書き足りないのですが、収集がつかなくなるのでこのへんで終わりにします。
自分の表現力のなさに絶望します……。うぅ、すみません。
今回私は一番考えたかった「トーマの死」についてのみ語ってしまいましたが、この話の主人公はエーリクでもあり、オスカーでもあり、ユーリでもあるのです。三者三様に問題を抱え、関わり、互いを慈しみ、必死に生きています。
全然触れられなかったのですが、一番人気は今も昔もオスカーでしょうね。「訪問者」というオスカーの幼少期を描いた話がまた素晴らしくって、オスカーを形成する大人びた雰囲気の理由がよくわかります。ユーリの選んだ進路を考えたときに、ついつい華藤さんの「この聖なる束縛に」を思い浮かべてしまいました。あれだけモテモテだったユーリの先行きがとても心配です。えーと、もちろん下世話な意味で(笑)
穢したくなるようなストイックさを持ったユーリが私は一番好きです。弱くて強い精神を一人っきりで守ろうとしていた健気さだとか、きつく寄せられた眉根だとか、そういう少年期特有の頑なさに惹かれます。

書き上げるまで(こんなんでも!)とても時間がかかり、多くのことを考えました。やっぱり私にはまだまだ到達できない魅力で溢れている作品であることを再確認した読書でもありました。とても楽しかったです!

読んで下さった方ありがとうございました!





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「トーマの心臓」萩尾望都

「トーマの心臓」を読んだ。    なぜ今になってこの作品なのか。それは、先日これを読んだから。「百億の昼と千億の夜」ネットで見ると、萩尾望都の代表作は「トーマの心臓」だ...

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な……長いぞ~~(汗)

こ、これは何かの卒論ですか(笑)
まさかBLを卒業するとか……ハイ、ありえませんね。

こんなに深く「トーマ」について語れるのはyoriさんだけだと思いますよ。 

あの当時、少年同士の「性愛」を描いた竹宮さんに対して、少年たちの純真さとストイックさを描いた萩尾さんは、わたしにとって、それこそ崇拝の対象でございました。萩尾教と言っても過言ではなかったかも。

「トーマ」の中では、黒髪じゃないけどオスカーが一番好きですね。斜に構えた時の冷めた目線と、醸し出されるアンニュイな感じが良いなあ~。オスカーくん、君っていったいいくつ?って言いたくなります。

この間のNHKのBL扱った番組で萩尾さんが「男女の話しではリアリティが大事だけど、男の子同士は、空想で描くことができるから好き」というようなことをおっしゃっていてショックを受けました。だって「残酷な神」とかだってわたしには充分リアルなのに「空想です」って言い切れちゃうなんて、すごいというか、何というか……。天才って「空想」の次元が違うんだわ、と妙に納得してしまいましたよ。

「トーマ」だって萩尾さんにとったら、そんなすごい特別重要な意味を含ませて描いていたんじゃないかもしれないのに、結果としていろいろ深~いものが盛り込まれた大傑作になってしまったんじゃないかと、思っています。

オスカー、ユーリ、エーリクの後日談は未だに読んでみたいです。
おじさん編、おじいさん編、彼らの子孫編、やってほしいな~。
超ストイックなユーリに男のパートナーなんかいたら、すっごくうれしいんですけど、ふふ~。

えへへ

>cochiさん♪

体調はもう大丈夫ですか~?

長いのに読んで下さってありがとうです。
ずっと書いてみたかったのですが、ついにやってしまいましたよ。
いやいや、全然深くないのですよ。前にもなんとなく宗教的な部分が気になって調べたことがあったので、他の人の解釈に頼っている部分もあるのです。というか、「トーマ」について本腰入れて語っている人多い!!

私は萩尾先生を中学生の頃に読んだ時にチンプンカンプンでしたからね。そうだ、当時「イグアナの娘」が菅野美穂主演でドラマ化されて、友達と読んでみようかという話になったのでした。今だったらわかるけど、あの頃はまだまだお子様でした(笑)。90年代に萩尾さんのような熱狂的支持を得た少女漫画家って誰だろう?私よりもちょっと上の世代には「バナナ・フィッシュ」の吉田秋生さんかなーと思うのですが。誰もが読んでいた漫画家って、さくらももこ ぐらいしか思いつかないかも?

>男の子の話は空想

ちょっとわかる気がします。創作って全部「嘘」だけど、嘘だってわかていても「そんなこともあるのかも」と思わせてくれる作品が「リアリティ」なのかなって思います。男女の話は・・・「ないわー、素敵だけどさ」という、リアルだからこそ冷めた気持ちで眺めてしまうような感じです。

オスカーも好きですよ!一人だけ精神年齢が突き抜けて高いですよね。二人の父の間を揺れ動く様が好きです。個展で見た休暇の短編、素晴らしかったですよね!!
えっ!?ユーリに男の恋人?だ、だめよ彼は神様に一生を捧げるのだから~。
でも、そうなるなら相手はエーリクでいいかも♪ビバ、年下攻め!


はじめまして

こんにちは。saiartと申します。

興味深い記事があったので、こちらに辿り着きました。
当時、リアルタイムで少女コミックを読んでいた者です。小学高学年から中学生にかけてでした。
当時の少女コミックの漫画は非常に魅力に溢れていました。
竹宮氏であれば「ファラオの墓」や「ロンドカプリチオーソ」など、大島氏や青春ものの上原氏や牧野氏など、多彩な顔ぶれでした。
私は別冊の「ポーの一読」に傾倒していたこともあり、この「トーマの心臓」が始まる時はドキドキしたものでした。
今でもはっきりと…最初のカラーのシーンを思い浮かべることが出来ます。
それ程に印象的なシーンでした。
語りつくせばきりがないのですが、当時の私はトーマの感覚は非常に大人であり、また自分を捧げるという犠牲をともなった愛は本当に正しいのだろうか…という、疑問ばかりでした。
死をもって愛していることをユーリにわからせることは、当時の自分には重過ぎると感じていました。またユーリがあの過去を払拭できないこともやはり理解しがたい宗教が背景にあるからなのだろう…とか、エーリクの単純さに腹を立てたり…
田舎に暮していたので、そういう話をできる友人はいません。だけど、毎週違う世界に連れて行ってくれるこの漫画は、自身に創造力を与えてくれました。
ポーはファンタジー、トーマは哲学を学ばせてくれた漫画です。

風木は高校生になって読みましたが…不思議なことに…私には必要のない漫画でした。
どちらかというと地球へ、や二重奏に嵌っていましたね。

結論として、やはりオスカーにメロメロでした。すべての理想が彼でした。
早くユーリとくっつけ!と、ばかり当時は思っていました。

久しぶりに叉読んでみたくなりました。当時買ったコミックはボロボロですが、まだそれを読んでいます。

長々とすみませんでした。
あまりにも懐かしくなり、コメントしてしまいました。

他の記事も読ませていただきますね。

>saiartさん

はじめまして、こんにちは!

わー、長文記事を読んで下さっただけでなく丁寧なコメントまで!
本当にどうもありがとうございます。嬉しいです。

記事でも触れましたが、当時の少女達の理解力や感性の鋭さに思いを馳せると、なんて私の頃とは違うのだろうと驚いてしまいます。大人になってからも観賞に耐えるような作品は圧倒的に昔の方が多かったのだろうなと思います(私は少女漫画が得意ではないのでちょっと偏見が入っていますが)。

「風木」は衝撃的な描写に驚いた中学時代から数年経って改めて考えた時に、ジルベールの人生の過酷さやセルジュの悲しみを思うともう辛くて…まともに読み返すことが出来ていません。一方「トーマ」に対してはずっと「何で何で?」という気持ちがあったのですよね。だから何度も読み返して考えてしまうのだと思います。トーマの死は暴力のようなものでもあったと思いますし、そうまでして救われる価値が果たしてユーリにあったのだろうか?とも思うのです。そこは根底に、無償の愛=盲目の恋が存在した少年期ならではの衝動でもあったのだろうなと。

お~、やはりオスカーですか!
私は彼のことをカッコイイと思いこそすれ、どこか脇役のような印象を変えられないでいますね。「風木」でいうパスカル役というか(笑)
トップにある森博嗣版トーマを読んで、やっと彼のユーリに対する気持ちが思っていたよりも強いものであったのかもしれないナと認識したぐらいでした…。


こちらこそ長々とすみません!
他の記事…えーと、BL本だらけですがもし良ければ読んでやって下さい!また遊びに来て下さいませ~♪
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