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一般書「ヘヴン」

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すごく、すごく、すごく、面白かった。
ちょっと最近ではあまり感じたことがない衝撃を受けた。
そうだよ、小説には力があるんだよ。力がある小説って存在するんだよ。
語りだせば陳腐で使い古された表現しか出来ないのが悔やまれるけど、これは紛れもない傑作。
川上さんは言語感覚がかなり特殊な人で、正直あまり馴染めないと思っていたのだけど、直球勝負の長編でこんなものが書けるんだ。凄いな。中学生の苛烈なイジメの話しをベースに「善悪とは何か」「起きていることに意味はあるのか」といった思索を組み込んだ・・・ある種のジュブナイル小説だと思うな。
大人が読んでいる場合じゃない。子供たちに読ませて欲しい。
感想書きたい。でも今はまだ無理。全然うまく飲み込めていない。

思うに「共闘」するのは少年と少女でなくてはダメなんだ。
少年と少年、少女と少女ではなくて少年と少女。私の勝手なやおい的発想だけど、「孤独と連帯」が生じる「少年少女」ものとしても、かなり理想的というかツボを突かれる話だった。男と女が一緒に居て恋愛が絡まない、でもそれ以上の(友情とはまた微妙に違う)関係というか。

うーわー、とにかく素晴らしかった!!という叫びです。失礼しました。

一般書感想「世界音痴」

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末期的日本国に生きる歌人、穂村弘(独身、39歳、ひとりっこ、親と同居、総務課長代理)。雪道で転びそうになった彼女の手を放してしまい、夜中にベッドの中で菓子パンやチョコレートバーをむさぼり食い、ネットで昔の恋人の名前を検索し、飲み会や社員旅行で緊張しつつ、青汁とサプリメントと自己啓発本で「素敵な人」を目指す日々。<今の私は、人間が自分かわいさを極限まで突き詰めるとどうなるのか、自分自身を使って人体実験をしているようなものだと思う。本書はその報告書である>世界と「自然」に触れあえない現代人の姿を赤裸々かつ自虐的に描く、爆笑そして落涙の告白的エッセイ。

日々出来る限り心に波風立てずに穏やかに過ごしたいと願っている私ですが、そうは云ってられないことも多々あるわけで。対人相手の波風ならまだマシで、相手の怒りや鬱屈を受け止めつつかわしたりしつつ自分の感情をぶつければ済む話ですが(疲れるけど)、特に何もないのに無性に気持ちが下がるときというのが面倒くさい。
そんなときは穂村弘を読むのです。自分と「世界」に得体の知れない「膜」があるように感じるときというのがあって、それはオタクであること腐女子であることとも無関係では恐らくないのだけど、それとはまた違う次元で「なんか私上手くできていない?」となってしまうような、いわゆる中二病(が何かも厳密にはよくわからんけど)の大人バージョンのような気持ちを抱くことがたまーにあるのですね。そんなときの心の清涼剤として、穂村さんのエッセイは機能します。少なくとも私にとっては。ちなみに穂村さんはご自身の著作について書かれている一般人のブログを読むのが習慣だそうですが、こんなスミッコのブログは見つかりませんよね?その件に関して対談集「どうして書くの?」で山崎ナオコーラと語っていましたが、山崎さんの引きっぷりが面白かったです(私も若干引きました)。40間近のダメダメな独身男の日常エッセイを読むと、空恐ろしい気持ちになってくると同時に癒されるのです。それは穂村さんのダメさが私のダメさに確かに重なるからなのですね。何だこの男!?と殴りたくなるようなイラつきが段々快感になってくる。穂村弘という男が嫌いで嫌いで仕方ないのに愛しく感じてしまう。わかってもいるのです。「穂村弘」は歌人穂村弘が生み出した虚構の人間だってことは。自虐と諧謔とある種のとてつもなく高い厄介なプライドと。そう、この人は自己愛の権化だ。その姿が確かに自分と重なるのだ。「世界に馴染むことの出来ないダメな僕」―穂村さんの自己愛は「ダメな僕」と自嘲する部分の限りない軽さにあるように思う。絶対ホントには自分のことダメなんて思ってないでしょ、むしろ「世界」の方がダメだって思ってるでしょ?と突っ込みたくなってしまうような面倒くさい人です。でもそんなところが他人とは思えないというね。また穂村さんの文章はエッセイとして読んでも単純に上手い。短い文章にありったけのグダグダを詩的な感性で押しつけがましくなく乗せている。どの文章も必ずクスッやチクッがある。煽り文句の「爆笑そして落涙」は決して大袈裟ではないです。そしてそして穂村さんの歌がまた面白い。穂村さんと枡野浩一を読むと、現代短歌の自由なこと、魅力的なことがよくわかる。二人ともままならない「恋愛」の歌が多い印象だけど、やたら共感するというか、その気持ちを知っているような心境になってくる。たった5・7・5・7・7で世界を作ってしまうのだから凄いよな。実は以前触発されて短歌に少し手を出してみたのですが、私には無理でした(笑)
男性作家の「自虐ネタ」を読むたびに思うのだけど、男は「カッコワルイ」を「カッコイイ」に転化させることが出来るよね。それがちょっと羨ましいなーと思った。
女は「カッコワルイ」を「カッコイイ」にするのはなんとなく難しい気がするから。

「赤い竪琴」津原泰水

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日常に倦み、無気力に生きるグラフィックデザイナーの入栄暁子は、祖母の遺品から出てきた夭折の詩人の日記を、その孫・古楽器職人の寒川耿介に返すため、尋ねていく。無愛想な寒川は、押し問答の末日記を受け取るが、お礼にと自作の赤い竪琴を暁子に渡す。この不思議な出会いは沈潜していた暁子の心を強く揺り動かした。受け継がれる“絆”と“謎”の行方を描く、静謐な恋愛譚。

久しぶりに一般書感想いってみます。

読むたびに性別を確認せずにはいられない。私にとって津原泰水はそんな作家です。
「蘆屋家の崩壊」で豆腐好きの伯爵と猿渡コンビに出会った時は、漂う「やおい臭」に迷わず女性作家だと思ったし、「少年トレチア」の破壊的な耽美さを読んでもそれは変わらなかった。その頃ホームページを見てようやく男性だと知り驚愕したのよね(その後著者近影をよく見たら、長髪だったけど間違いなく男性でした・・・)。耽美で幻想的で中性的な文章が好きで読み続けてしまう作家です。
「赤い竪琴」はたぶん津原さん唯一の恋愛小説。恋愛小説っていうのは「恋愛」を描いている時点ですべて同じだと思うんですよ。乱暴な言い方だけど、日頃読んでいるBLが詰まる所「男同士の恋愛小説である」という大前提をベースに、キャラと設定に様々な装置を仕掛けて違いを出しているのと同じだということ。女が男に会いに行く切っ掛けも、二人の心が近づく様の唐突さも(恋愛とはそういうものと云われてしまえばそれまでだけど、たまーにBLを読んでいて我に返るのは、「男が男に惚れる」ファンタジー部分ではなくて、人が人に恋をする瞬間の唐突さにだったりするのです。ええ、恋愛力の低い人間ですよ・・・)、その後の元彼の登場も、男を襲う運命も、なんというか流れだけで見れば横文字小説的。しかし仕掛けられた装置の美しさによって、よくある恋愛小説が「津原泰水の小説」になる。その幻想的で美しい様は圧巻。祖母と詩人を繋ぐ糸が垣間見えた瞬間の主人公の心の揺れが痛いぐらい胸に迫ってきます。豪華客船に鯨の歌声という装置はロマンチックすぎると思わなくもないけど、用意された幸福なラストには素直に感動してしまいました。うん、好きだわ。

津原さんは「津原やすみ」名義で少女小説を長く書いていた経歴の持ち主です。SF、ミステリー、推理小説とジャンルは幅広いけど、常に「少女だった人へ」向ける視線があるような気がするのは、たぶん気のせいではないはず。もっと云えば、その少女はどちらかと云うと「腐」よりの人間な気がしてしまうのは、やっぱり伯爵と猿渡君のイチャイチャの印象が強いからなのか・・・。ちなみに猿渡君はその後「ピカルディの薔薇」という短編集でも再登場します。鬱傾向の強いダメダメな彼が私はとても好きです。



一般書感想(いろいろ)

今月頭、読書メーターを付けだしました。
そしたら3日坊主(厳密には1日)で終わりました・・・。
言い訳ですが、コメント機能があるので一言書くわけですが、ブログに感想を上げないような本てのはイコール微妙な本ということで、気付けばやたら辛口になるのですよ。別にそれはそれで面白いのだけど、公開するのはちょっとなと。あとは管理が必要な程今月は読めなかったし買わなかったというのもある。家に読んでいない本があるのが気持ち悪いので基本的に積読はしないのです。


桜庭一樹「少年になり、本を買うのだ」(東京創元社)
桜庭さんの小説は残念ながら(本当に心の底から残念に思う)好きではないのだけど、読書記録エッセイの本書はとても面白かった。書評本とは違って、ひたすら自分が買った本、読んだ本、人と語り合った本、本、本!のことと些細な日常の機微を綴っている。なんというか・・・私は自分のことを「本が好きな人間」だとは思うけど「読書家」を名乗るにはとんでもなく不足だと思っていて、それはこういう人が世の中には数多存在していらっしゃる(尊敬語ですよ、もう)からなのよね。とにかく読む読む読む。息をするように戸惑うことなく読む。その情熱は自分の身にももちろん覚えがあることだけど、桜庭さんはたぶん365日24時間その情熱がフル回転している感じがする。いやいや、素晴らしいです。
読書は海外の古典ミステリが中心のようで、さすが東京創元の編集者!といった方々と話す本のタイトルは見事に私の興味関心からは遠いのだけど、たまに出てくる日本の小説はどれも読んでみたくなるものばかりでした。昔読んで「?」と思った本も何冊かあり、早速読み返してみようと思った次第。
そして、私がどうして桜庭さんの小説を好きになれないのかが、今回なんとなくわかった。
私の少女時代は、ゼンノー感よりもゼツボー感が身近だった少女時代だからなんだわ、きっと。
桜庭さんは「中学時代にあった全能感」というフレーズを何度か使っているのだけど、それが本当なら(本当でしょうよ)、それはまた随分隔たりを感じる精神なわけで・・・。桜庭小説はほとんど少女が主人公なのだけど、その少女達にどうしても居心地の悪さを感じて仕方がなかったのは、土台が作家と違うからなんだわとすごく納得しました。あと、ひとつ不満を言うのなら創元文庫は値段が高い!

佐々木譲「笑う警官」(角川春樹事務所)
秋に映画化される小説。警察小説を読んでいて根本的に疑問なのは「どこまで本当なの?」ということ。だってこの小説の北海道警察本部は普通に悪の組織だよ?内部告発しようとしている警官に殺人の濡れ衣を着せて射殺しようとしますからね。色んな場面で突っ込みどころ満載で、ある意味面白かった。大体主人公の「佐伯」がちっとも有能な刑事には思えないし、事件の真相は最初から見えているし、でも一気に読んでしまう力はあるんだよなぁ。次は今野敏を読んでみよう。
映画では大森ナオが主演なのか。テレビでやったら見てみたいかも。

だいぶ前から感想を書きたくて仕方がない一般書と評論があるんだけど、今の私にはちゃんと書くのは無理なのでザッとメモとして書きます。桐野夏生「残虐記」と斎藤環「関係の化学としての文学」の二つを合わせて感想を上げたかった。斎藤環は「母は娘の人生を支配する」の著者で、私の知る限りでは唯一「腐女子」について大変的確に限りなくこちら側に立って論じている男性です。「残虐記」は桐野夏生が新潟の女児監禁事件に触発されて書いた小説です。主人公の小説家は幼いころに1年間若い男に監禁されていたことがあり、その事件のことを私小説風に記した後失踪をします。私が二つを合わせて考えたいと思ったのは、文庫版の解説が斎藤さんで、そこに書かれていることが目から鱗というか、すごく考えさせられることだったからなのです。監禁された少女は過酷な生活を生き延びる為にいつしか妄想の世界に羽を広げるのですが、その妄想というのが「やおい」的な妄想なんですね。自分を監禁した男は隣の部屋に住んでいる男と性的関係にあり、少女を監禁することによって間接的に二人は性交をしているのだという妄想で、主人公はその妄想を元に10代で小説家デビューをするのです。虐げられた少女が生きる為に行った妄想が「やおい」的であったことについて斎藤さんは現代を生きる「腐女子」の内面と照らし合わせて大変興味深い考えを述べています。それがすごく面白かったから、きちんと整理したかったのよね。でも「関係の―」はもうすぐ図書館の返却期限な上になかなか面倒くさい本なので、たぶん無理。諦めます。ああ、ヘタレだなぁ。でもいつかリベンジするかもということでメモでした。桐野さんの小説はもちろん文句なしに面白いです。

一般書感想「ノスタルギガンテス」

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93年刊行の児童書です。
他ブログ様で懐かしい題を拝見して猛烈に読みたくなったので図書館に駆け込みました。
これは当時の「夏の課題図書」だったんですよ。こんなブログ書いている私なので、読書感想文の宿題だけは嬉々としてやっていたような、そうでもなかったような微妙なところですが、「ノスタルギガンテス」の題のインパクトは強烈でした。
正直に言いますと、題のインパクトから手に取ったものの内容の「?」さに当時の私は最後まで読まずに返却してしまったんですよね。ここに描かれていることはよくわからないけど怖い。とりあえず感想文は書けそうにない―と、当時の私が思ったかどうかは知りませんが、子供には少々荷が重い話であることは間違いありませんでした。これは「児童書」の皮を被ったなんとも言えない薄ら暗い退廃的な話です。希望のようなものがここまで徹底的に排除されている話を久しぶりに読みました。逆にこの話で読書感想文を提出した子供の感想を読んでみたい気分ですよ。何を書けというのだろう・・・。

舞台は新興住宅地。林立するマンションの目前に広がる公園には広大な「森」があった。主人公の「櫂」はその森にある「木」に、夏休みの工作で作った「メカザウルス」を隠す。その時から異変が始まった。「メカザウルス」の鎮座を皮切りに、「木」には櫂が「キップル」と名付けた街中の「ゴミ」が集まるようになる。日ごとに増殖していく「キップル」に為す術もない大人たちは「森」そのものを失くしてしまおうと考えるのだが、二人の男の出現によって事態は思いがけぬ方向へ進むことになる。男達は「木」の写真を撮り、「木」に魅せられた櫂を不可思議な木の「創造主イザナギ」として吊るし上げる。そして男の一人によって「木」が「名前」を付けられて世間の目に晒されたことによって「木」は人の手によって保存されながら増殖を止めることなく巨大化を続ける。

えーと、これがあらすじではなくて全体です。
環境問題の話に取れなくもない気がしますよね。でも全然違うと思います。そんな表面的なものでは終わらない残酷さが終始あります。本当に、一縷の希望も見えない。そして視覚的なイメージがひたすら美しい。最終的に「木」が保存される形態は「樹脂」によるのですが、そのイメージの素晴らしさといったらないです。
櫂はその「木」が「特別なもの」であることに気が付いているのですが、彼の理解者は誰一人としていない。友達は彼を気味悪がり、両親は彼を見ていない。主人公の櫂はとにかく徹底的に孤独です。彼の心の拠り所であったのが自身が作った「メカザウルス」であり、それを隠している「木」そのものなのです。その描写が児童書的な「感受性豊かな少年の夢想」レベルで済む優しさじゃまったくない。これは読まないと伝わらないと思いますが、彼が「木」に執着していく様は寂獏としていて狂気的です。読んでいて何より恐ろしいのは、これは何かの「寓話」などではなくて、ただそれだけの話なのだとじわじわと感じさせる所だと思います。少なくとも私には、「木の周りにゴミが集まりそれが増殖していく話」で十分に感じられました。男が「木」に名前を付けるくだりなどは思索的でいくらでも深読みが出来ると思うのですが、「名前」によって「モノ」の存在に限らず「人」の存在までも「限定」されて「閉じ込められる」といったところでしょうか。先日読んだ「ダブルミンツ」も名前に関わる面白い話でしたが、「個」の存在を限定するのは「言葉=名前」であるというメッセージを強く感じました。しかし、それを感じたところで「読書感想文」にどう書けというのか・・・。
そして、私が著者のたくらみに「ヤラレター」と思ったのは「木」の名前がそのまま「ノスタルギガンテス」ということでした。強烈な題によってこの本が記憶に留まった所以は紛れもなく「名前」によるのですから。ま、そんなことを著者が意図したのかはわからないですが。

ここまで書いても自分がこの本に対して何を言いたいのかさっぱりわからないのですが、たぶん私は「ノスタルギガンテス」の名前を忘れることはないと思います。内容や感想をすっかり忘れたとしてもこの名前は忘れない。そんな本があっても良いではないかという一心で書いてみました。しかし、「児童書」としておくにはもったいないというかなんというか、そんな感じの本です。





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Author:yori
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